歎異抄第十八章に「親鸞聖人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とあります。
まず私の記憶のなかに西遊記があり、物語のはじめは天上界を荒らし回っていた孫悟空が如来と賭けをした。それは如来の手から抜け出せたら天上界を我がものに出来るが抜け出せぬ時は罰を受けるというものだった。悟空は「承知した」と言うが早いか、キント雲に乗って空を駆け、そろそろ天の端と思える所に五本の柱が立っている。その真ん中の柱に「悟空ここに来たれり」と記念に書き付け、得意になって戻って来ると、如来に一喝された。何と、柱だと思ったのは如来の手の中指でそこに悟空の書いた文字が有る。悟空が慌てて逃げようとした時五行山が現れて悟空を下敷きにして逃げられぬようにしてしまった、云々と言う事でした。
次にある仏跡巡りをしていた人が仏像の手の平の上で踊っている裸婦の姿を見られてすぐに悟ったと。
この二つの事で感ずることは、如来の慈悲は広大無辺であって、人が如何なる振る舞い、恥ずかしい振る舞いをしても、それは如来の手の中での事であり、如来は決して手から落とさない、と言う事です。「何と有り難い事か」の一語に尽きます。弥陀はあの手この手を使って、「一人が為なりけり」を実感させようとしていられる。弥陀は私一人助ける為に五劫と言う人間の想像もつかない長い長い年月を掛けて思惟して頂いて本願を立てて下さった。私のような何をやってもろくな事の出来ない性悪な愚か者に迄よくぞよくぞ本願を立てて下さった。感謝してもしきれない私なのです。
阿弥陀如来は人間をすべて知り尽くしての上で大慈悲を掛けていられるので、人間側の仏の教えが分かったとか分からないとかの事情を問題になさいません。私たち一人一人を丸ごと助けられるのです。

(*)正山寺の旧ホームページの体験談説法1と同内容

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